2013年12月4日水曜日

グローバル化

グローバル化、あるいはそれに対応できるグローバル人材という言葉がよく聞かれます。英語が話せることが絶対で、小学校や就学前から英語を習わせようかというような動きもある。

しかしながら、英語(母国語以外の外国語)が話せることが"グローバル人材"の要件なんかというと、それは違うのではないかというのが私の意見である。

現に、多言語を操りながら他国との諍いを好みあるいはナショナリズムを振りかざす輩を"グローバル人材"とは、とても言いたくないのである。

"グローバル"という言葉は、"globe=地球"の派生語で、"全地球的"という日本語が充てられているが、必ずしもその概念を正確に言い当てているとは思えない。"globe"は"球、球体"という意味もあって、その派生語は"全体的、包括的"というような意味も持っている。
ということは、特定の文化・文明だけを背景とする"部分的"な主張は、とても"グローバル"とはいえないのであって、そんな人材を"グローバル人材"などとは"ちゃんちゃらおかしい"のである。

しからば、私の考える"グローバル"とは何か、一言で言うと"価値観が相対化できる"ということである。

いくら外国語を自由に操ることができ、他国の人とコミュニケーションがとれたとしても、自分の価値観を絶対的な物として他者に押しつけ、常に対立を起こすような者は、とても"グローバル"とは言えないのである。

世界は、一つ一つのパーツで組み上がっており、それぞれが絶対的な主張を繰り返し、接着剤が無いとちょっとした刺激でばらばらに砕けてしまう。そのパーツとパーツとの結びつきをできるだけ強くし、少々の刺激ではびくともしない"globe"を作る力、それこそ偏狭なナショナリズムではなく、グローリズムであり、"価値観を相対化できる力"なのだと思う。

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