2009年6月18日木曜日

知ってるつもり

最近、毎朝職場へ向かう電車の中で読んでいる本について、少々お話ししたいと思います。

今年の年頭に、今年の方針として宗教、哲学についての読書量を増やしていきたい、と言う誓いを立てておりましたが、なかなかしっかりとした本には手が出ず、周辺部分を少しずつ触っていると言う状態が続いています。

その中で、先日から道元禅師の話を弟子がまとめた「正法眼蔵随聞記」という文庫本を読んでいます。
道元禅師というと曹洞宗を日本に広め、本邦初の哲学書としても名高い「正法眼蔵」を著したことで知られています。
そのうちいつかこの正法眼蔵も読みたいと思っているのですが、誰言うことなく世紀の難読書と言われていますので、なかなか手が出ず、ある人に勧められた随聞記を先に読むことに致しました。

前置きが長くなりましたが、これがまた面白い。一つ一つの話がコンパクトで、適当な長さであり、わかりやすい言葉で書いてあるので、原文でも結構意味が取れますし、我が身に振り返って更に納得することも多くあります。

今朝読んだ一節は、次のようでした。少し長いが引用します。

示云、当世学道する人、多分法を聞時、先好く領解する由を知られんと思うて、答えの言の好からん様を思うほどに、聞くことは耳を過ごす也。
詮ずる処、道心なく、吾我を存ずる故也。只須先づ我を忘れ、人の言わん事を聞て、後に静に案じて、難もあり不審もあらば、逐も難じ、心得たらば、逐て帰すべし。
当座に領する由を呈せんとする、法を好も聞ざる也。

大意は、
最近の学僧は、自分が賢いところを知ってもらおうと思い、上手い応答の法ばかりを考えているので、話が耳をすり抜けてしまっている。
要するに、道心がなく自分を捨て切れていないからだ。
まずは、相手の言うことを好く聞いて、その後難点や疑問を問いただすべきである。
その場で、わかったような顔をするのは、法を聞いていない証拠である。

「知ってるつもり。」
反省します。

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